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「顧客の悩み」を起点に、粘着技術で新たな価値を。

前編カモ井加工紙株式会社 代表取締役社長

鴨井 尚志

番外編

岡山県にある、カモ井加工紙株式会社 代表取締役社長 鴨井 尚志 - 岡山県北の求人情報サイト「いーなかえーる」さんに、お話を聞いてきました。

index

1“粘着技術”による様々な製品を提供。

丸尾

まず、カモ井加工紙株式会社について教えていただけますか?

鴨井

“粘着の加工技術”を使って、いろいろな製品をつくっている会社です。

丸尾

例えば最近ですと「mt(マスキングテープ)」が有名ですよね。もともとはどのような製品から始まったのですか?

鴨井

大きな流れで言うと、最初は粘着式のハエ取り紙(ハイトリ紙)から始まりました。それから工業用の粘着テープになって、今はそれに加えて文具雑貨用のテープがあるという流れです。

丸尾

カモ井加工紙としては、もうすぐ100周年を迎えられます。ハエ取り紙からスタートして、次に工業用を展開されたとのことですが、自動車産業が先ですか?建設関係のマスキングテープがあとに発売されたのでしょうか?

鴨井

自動車用が先ですね。昭和30年代に入ってから、マイカーブームになって、「一家に一台車持ちましょう」という時代の流れと同時に、車が増えてきました。
そうなると車の塗装に使うテープが必要になってきて、そこから始まりました。
それとガムテープもほぼ同じ時期です。段ボールが出てくるようになって、その封緘(フウカン)用に必要だからと言われ始めました。テープの生産は昭和30年代中頃の時代背景があったからこそですね。建築用のマスキングテープは、その後です。

2100年続く老舗企業の姿勢。

丸尾

建築用テープが出てきたことも、時代背景に関係していますか?

鴨井

そうですね。一番大きいのはやはり高層ビルの建設が増えた事でした。

丸尾

建築用のテープと言うと、建築作業に使われる養生テープというか、仮どめ用のテープですよね?

鴨井

一般にはそういう言い方をしますね。「カブキ」「ムサシ」「楓」…など多数の建築作業向けの商品があります。

丸尾

100年前から“粘着技術”を使った商品展開ということですが、ハエ取り紙、建築用の養生テープ、最近ではmtなど、そういった「ヒット商品」を約30年ごとに出されている企業として、いわゆる普通の製造業とは違うと感じます。
多くの製造業が世の中にはたくさんありますが、自分たちで企画し、商品をつくっていくという姿勢は、100年前から続くカモ井加工紙の基本的な姿勢かと思いますがいかがでしょうか?

鴨井

全て、「お客さんの悩みをどうやって解決するか」というところです。
最初のハエ取り紙も、時代背景として非常に生活衛生的によくない状況だったから誕生しました。
当時、国産の粘着式ハエ取り紙というものがなかったんです。似た商品があっても輸入品だけでした。輸入品は、とても高価。なので、なかなか一般家庭に普及しません。なら、安くていいものを提供しよう。皆さんがハエで困っているなら、ハエ取り紙をつくりましょうとなり、作ったのが始まりです。

鴨井

その後も、車が増えてきて塗装用のテープが必要と言われ、ならそれをつくりましょう。となり、段ボールが増えて、そのために養生するテープが必要だからと言われ、それならそれを作りましょうとなり、ガムテープを作りました。

なので、こちらから提案する型じゃないんですよね。
大企業は自分たちの資本力とか開発力、技術力、マーケティング力、いろんなもので、「こういうものができましたけど、いかがですか?」という提案ができますが、中小零細企業というのは、そこまでの経営資源がない。

なので、「お客さんが何を求めているのか?」あるいは「何で困っていらっしゃるのか?」という要求をつかむ事がもっとも重要なことです。私たちの商品もですが、持っている技術やサービスで、どうやって解決するかということなので、一番手っ取り早いといえば手っ取り早い仕事方法だと思います。
多分、そういう会社の方が圧倒的に多いと思いますよ。

3すべてはカスターマーペイン(顧客の悩み)から。

丸尾

常に需要(課題)というものを肌で感じることで、その課題解決の手段として提供していくという形でものづくりをされているんですね。

鴨井

一番大切なのは「カスタマーペイン(顧客の悩み)」を捉えることです。

丸尾

まさにそうですね。現場の課題について、きちんと肌で感じたものを取り入れるというところが、カモ井加工紙の特に優れているところだと思います。
そのような現場の課題は、どういった感じで吸い上げていますか?

鴨井

まず、営業がいろいろアンテナ張っています。どういう場所でどういう使われ方をするかという問題を、営業がキャッチします。

それを糸口に、開発の人間が現場に行きます。「実際にどういうことが起きているのか?」を知るというのも当然あるし、それを解決するために、「どういう環境や条件、制約があるのか?」というのも加味して、製品として形をつくっていきます。

そして製品をつくる側も、「これでよいのか?」と思案します。そうなると実際にどういう人が利用しているのか知る必要がでてくるので、製造の人間も現場に行きます。

なので営業、開発、製造、この3部門は必ず現場に行って、現場の声を聞くようにしています。そこが大きいんじゃないでしょうか。そうでないと伝言ゲームになっちゃいます。

我々の場合、カモ井があって、代理店があって、販売店があって、その先に実際に製品を利用する人、職人さんがいます。でも利用者でもある職人さんの声が、我々に、ダイレクトに届かないんですよ。届くまでに、いろいろな人の主観が必ず入ってしまいます。「何々だった“みたい”だ」というのが、次の段階に行くと「何々だった」と断定されていることも多い。そういうふうに伝言ゲームになって、最初と最後で食い違っていることが多いんです。

なので、我々は、とにかく現場に行って直接聞きましょうとしています。つくる側が実際に行って、話を聞くだけじゃなくて、場合によっては自分たちが体験することもあります。それがカモ井加工紙の“商品づくりの強み”になっているのかなと、勝手に思っています。

4唯一の“テープ専門”メーカーとして。

丸尾

現場のニーズが社内に上がってくる部署などがあるんですか?例えばmtの次の商品開発にトライされている部署とか。

鴨井

開発部隊は常にいろんなことをやっています。
例えば、営業が「お客さんがこういうことで困っている。では、うちで何とか対応しましょう!」と言って話を進めてみる。でも開発の段階で「そんなものおまへんで」という話になりかねません。
だから、そうならないように、開発は結構裾野の広いところで、粘着というくくりの中ではありますが、いろんなことはやっています。
こういう問題や、こういう課題が出てきたら、これを持ってきましょうとか、これとこれを加えて、足したり引いたりすれば、これができますねとか、そういう事をやっています。

丸尾

提案する際に解決策まで持っていくには、お客さんに課題を聞くという、吸い上げる力と、それを課題解決として提案するために、担当者自体が“当事者としての思い”がないと、話を聞いただけで終わってしまったりすると思います。

「その悩みを解決してやろう」という意思や、「そのお客さんをもっとよくしたい」という意思というものがないと、商品をつくっていくエネルギーというのはなかなか出ない。
その意思が、チームを引っ張っていき、チームを動かす。それは会社としての風土なんでしょうか?

鴨井

先人達がつくり上げたものの中に、そういうのはあるのかもしれないですね。
それと、粘着テープにおいても競合メーカーは何社かあるんですよ。その中でも「テープ」の専門メーカーは、私たちカモ井以外にはありません。ほかは何かの会社の中のテープ事業部なんです。粘着テープだけで成り立っている会社というのが、カモ井以外にはない。

そうなると粘着テープのメーカーとして、実際に困ったことがあったらどう対応できるのかという、その「業界のプロ」でありたいという想いは、当然ありますよね。
「自分たちにはこれしかない」だから、「どこにも負けたくない」という気持ちも出てきます。それだけに、お客さんとの距離もできるだけ近くしておきたいという想いはありますね。

5大学卒業後、現実逃避でアメリカ留学(笑)。

丸尾

鴨井社長自身についても質問させてください。ご出身は岡山県ですよね。今に至る経緯など教えていただければと思います。

鴨井

高校卒業後、神戸の大学に進学して、その後アメリカに留学しました。最初は特に目的はなく、2年の予定で留学しました。要するに日本の大学を出て、たかだか22、3歳の若造が、就職で自分の人生を決めるわけでしょう?それに対する恐怖心がめちゃくちゃ強かったです。

だからアメリカ留学のような大層なものではなく、就職したくないから現実逃避ですよ。
自分が何をしたいというのも当然分かっていないし、何もない。そういう状態で、日本で就職して本当にいいのかなと考えているとき、たまたま何かの本を読んでいて、アメリカも面白そうだなと思いました。

自分と同年代で違う文化の人たちは、どんな環境で、何を感じているのかという興味本位でした。だから、英語を極めようとか、経済学を極めようとか、そういう志は全くなくて、2年間遊んでこようと。自分の見つけられるものが何かあったらいいのかなと思って行ったんですよ。

鴨井

留学して1年半ほど経ったときに、日本人の留学生の先輩に、「お前今後どうするの?」と言われました。なので「あと半年ぐらいで帰ろうと思います」と答えたんです。そうしたら「お前の2年間というのは、屁みたいなものだ」と言われました(笑)。

私はその時、日本でいう短大みたいなところに留学してたんですよ。当時、夏休みを利用して、2週間ぐらいのホームステイ留学というのが沢山ありました。2週間、UCLAに行ったり、南カリフォルニア大学(USC)や、UCバークレーなどに滞在するんです。

そんな日本人が聞いても分かるようなところにたった2週間ホームステイしただけで日本に帰国した人と、私の留学していた日本ではあまり知られていない短大みたいなところに2年行って帰国した人。日本の社会はどっちをとるかといったら、「2週間のUCLA」だと先輩に言われました。

それがすごくショックでした。それまで、何となく、いいやと考えていたことを、面と向かってガツンと言われ、このアメリカでの2年間は意味のないものになるという現実を突きつけられた気がしました(笑)。

鴨井

それから一念発起し、半年近くかけて、がむしゃらに「アメリカの大学に入る」勉強をしました。当時はTOEFLで500点とれば大学に行けたんですけど、結果497点でした。「3点ぐらいええやんけ」と事務局に行ったんですが、「1点でも3点でも、足りないのは足りないからダメ」と言われました(笑)

数か月後に再度受けて、今度は570~580点ぐらい取れたんです。でも「定員が多いから」とか言われて断られました。そこから1週間ぐらい事務局に通い詰めましたね。こちらはなくすものはもうないので強気でした。

「アメリカは自由の国で、いろんな可能性を自分たちが具現化できる国だと聞いたけど、あなたの言っていることはそれを全部否定することだ」とか「アジアからきた青年の夢を打ち砕いた」とか散々言いましたね(笑)。

それから少しして、無事大学に入学できました。それでも、日本の大学単位をそのままアメリカの大学に移行できないし、さりとていきなり大学院に入れるかといったら、そうじゃない。

知ってますか?アメリカには5年生≪5th year≫というのがあるんです。
大学4年生は終わっている。だけど大学院には入れない。そんな人のために5年生というクラスがあって、そこで大学院に入るための単位が取れるんです。全てで13科目ぐらいあります。全ての科目で80点以上取れば、大学院に入れますよと言われたので、それを1年かけて取りました。「ざまあみろ」という思いで日本に帰国しました。

あ、大学はUCLAじゃないですよ(笑)。

6そしてカモ井加工紙に入社。

丸尾

帰国後はどうされたんですか?

鴨井

帰国して就職しようと思ったら26歳の手前でした。いろいろな会社の入社試験を受けに行くんだけど、もうほとんど受け付けてくれないんですよ。3年のブランクがあるからと。留年などの形で1年、2年遅れるのはいいけど、3年遅れて職歴が一切ないというのは対象にならないと言われ、履歴書出してもそのまま返さました。

なので新卒ではなく、中途の求人情報で就職先を探しました。リクルートにも登録しましたね。リクルート経由で、某製薬メーカーが入社試験をしてくれるというので行ったんですが、試験が全部英語なんです。面接も、世界中の北米とか、オセアニアとか、ヨーロッパとか、アフリカとかって各ブロック長がずらっと並んで質問してくる形なんです。

ただ質問してくるのは、東南アジアとアフリカと中近東の3人だけ。
「英語以外の言葉を覚える気はありますか?」「暑さに強いですか?」「武道の心得はありますか?」って。(笑)これは襲われるのが前提(のエリア)だと思いました。絶対駐在員要員として採られるんだろうなと思いました。

「最後に何か質問ありますか?」言われたんですが、入る気なかったので「入れてくれたら質問します」と答えました。結果、内定をいただきましたが、僕の方からお断りしました。

その後、求人誌で見つけた計量器のメーカーを受けました。無事内定をいただき中途の形で入社しました。そこで4年間働き、30歳のときに初めて父親から「こっちに帰る気はあるか?」と電話をもらったんですよ。

丸尾

そのときはどちらにいらしたんですか?

鴨井

福島県のいわき市にいました。
実はそれまで、「お前はカモ井加工紙の跡取りだ」ということは、一言も言われたことがなかったんです。鴨井家の跡取りとは言われてましたが、“会社を継ぐ”という事に関して、両親は一切言ってこなかった。なので自分も、ほかで就職すると当たり前に考えていました。

30歳のとき初めて“跡取り”と言われて、正直嬉しかったですね。遂に「俺の力を認めよったな」と。冗談です(笑)。それから務めていた会社を退職し、岡山県に帰ってきました。
カモ井加工紙へ入社してからは、研修でぐるぐるいろいろな部署を回りました。
最初についたのは営業です。赴任先は、北海道、東北です。社長の息子だから、「少々辛いところ行ってもやめることはないやろう」ということで、その地域を5年ぐらい営業で回っていました。

「顧客の悩み」を起点に、粘着技術で新たな価値を。

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