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出会いと人を大切に、医療を通じて地域を変える。

一般財団法人津山慈風会 理事長

浮田芳典

津山市

岡山県にある、一般財団法人津山慈風会 理事長 浮田芳典 - 岡山県北の求人情報サイト「いーなかえーる」さんに、お話を聞いてきました。

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1長年勤めた会社を辞めて、津山にUターンした経緯。

丸尾

津山中央病院をはじめ、様々な医療や福祉施設の運営をされております津山慈風会の浮田理事長にお話をお聞きします。はじめから質問させていただきますが、浮田さんご自身は津山慈風会の以前はどのようなお仕事をされてきたのですか?

浮田

私自身は、津山高校を卒業して慶応大学に行きました。大学卒業後は、安田火災海上保険(現、損保ジャパン日本興亜)に入社して全国に転勤していました。最初は東京に10年ほど、その後は名古屋、福岡、広島、そしてまた東京で、最後広島で退職して、ここ津山に高校卒業以来30年振りに帰ってきました。

丸尾

津山に帰ってこられた経緯を教えてください。

浮田

なぜ帰ってきたかという経緯ですが、まず津山慈風会は財団ですから、一般の企業のような株式を持っているといったようなオーナー制ではありませんが、私の父親は昭和28年に津山慈風会をつくるときから関わってきて、専務理事をしていました。

その頃の津山中央病院は、現在の津山記念病院がある街なかの二階町にありました。当初80床〜100床の病院から、40数年たって365床の病院となっていました。施設としても老朽化してきており、駐車場がなく、拡張性がなくこのままだと津山中央病院の発展性がないのではということが、私が津山へ帰る10年間くらい前からの大きな課題となっていました。

父親は専務理事として事務方の中心として勤務しておりましたが、そうこうするうちに、平成6年の2月に父親が病気で亡くなってしまいました。「移転問題はどうするのか?」ということは当時、本当に大きな課題のままだったのです。

当時普通の“サラリーマン”というのは、一兵卒から課長になり、部長、支店長になりという流れじゃないですか。安田火災海上保険で、私も45歳のときに支店長になって、車と運転手がついたわけですよ(笑)。

サラリーマンというのは、やっぱり入社したからには、少なくとも支店長、できれば役員というのが“憧れ”じゃないですか。私もやっぱりサラリーマンで一兵卒からやっているから、当時は役員ぐらいにはなりたいと思ってやっているわけですよ。それでやっと支店長なった途端に父親が亡くなってしまいました。

自分とすれば50歳過ぎくらいまでは・・・やりたかったという思いはありましたが、私の父親が亡くなり、迷いに迷った揚げ句に、長男だしということもあって、「ぜひ帰ってきてほしい」という方もいて、その1年後の平成7年の4月にここ津山に戻ってきたわけです。

2津山市川崎へ、津山中央病院を移転。

丸尾

そこで戻って来られてから、この津山慈風会の方に入られたのですね。

浮田

まだ津山中央病院が津山市二階町にあった時に、私は帰ってきました。そのときに津山市川崎(現在の、津山中央病院のある場所)に位置していた国立療養所津山病院の統廃合という問題がありました。

国は、その国立病院を廃止するか、委譲(売却)したいという方向で、以前に一度断った経緯があったのですが、私が津山に帰ってきた頃にもう一回考えてほしいと、国から話がありました。当時、国としては手放したい方向と、住民としては残して欲しいという国療存続運動もありました。

平成7年4月に帰ってきて、もう一回仕切り直しで厚生省(現・厚生労働省)と委譲(売却)の話をもう一度仕切り直しましょうということになって、平成9年12月1日、2年半で話をまとめて、ここ津山市川崎の国立療養所津山病院を国から譲り受けました。それと同時に二階町にあった元津山中央病院の解体作業を始め、現津山中央病院であるこの建物もその時に作ったんですよ。そして私が津山へ帰って4年半後ですが、平成11年12月に現在の場所に津山中央病院を移転させたのです。

現在も後ろのあたりを工事していますよね。保育園なども工事していて、それらが今年の8月で大体こういう最終形となる予定です。だから移転してからここに来るまでに約20年かかっています。

3「医師ではないこと」の“弱み”と“強み”。

丸尾

浮田さんは津山商工会議所の副会頭も担われていますよね?

浮田

そうですね。津山商工会議所の副会頭もさせていただいていますが、現在会頭(2019年2月現在)をされている株式会社マルイの松田会頭が、商工会議所は「“全産業”会議所」だと言われていました。私に副会頭の話をいただいた時に、「“商工”会議所」でしょ?医療福祉はあまり関係ないのでは・・・?と。

だけど、これから地域活性化という面から見ていくと、“商工”だけではなく、医療福祉も含めて“全産業”で地域をどう盛り上げていくかを考えていくべきであると思っています。地域を支えるといったら語弊があるんですが、地域活性化にどう役に立っていけるかということを考えるべきだと思います。

だから“商工”に限らず、「“全産業”会議所」を目指す!という松田会頭の考えもあって、私自身は医師ではないですし、「分かりました」ということで、副会頭を4年程やっています。全国でも商工会議所の中で副会頭やっている医療関係者はほとんどいないんですよ(笑)。

だからこそいつも思っていることがあります。医療に携わる上において私の“弱み”は「医師ではない」こと。でも、地域活性化や経営に携わる上においての私の“強み”は「医師ではないこと」。だからこの病院も、医療責任者である院長とともに二人三脚で行くのが一番いいだろうと考えています。

4まず本当に地域から必要とされる病院を目指した。

丸尾

浮田さん自身としては、もともとはどのようなビジョンをもって病院立ち上げから運営をされてきたのですか?

浮田

国療の委譲を受けて、その時から何を病院の理念にしていくか。
この部屋には、患者様や地域に向けての、現在の理念となっている、いろいろなことが書かれています。先ほどお話ししたように、私はもともとサラリーマンでしたから、幾ら支店長だといっても、経営責任を持っているわけではありませんでした。

私も感覚的にはまだ入ってきたばかりでしたし、それでいきなりこの事業ですから、当時の私の考え方は、とにかくこの地域の医療を支える存在になることでした。だから三次救命救急センター、小児・周産期、災害拠点病院とか、それから感染症などありとあらゆる政策医療の指定病院を全部受けたわけです。

国療の委譲を受けて、ここに新たに津山中央病院を建てるときの機能として、そういうものを全部要求されたので、私たちは、つぶれない病院を目指すんじゃなくて、“つぶせない病院”を目指し、“本当に地域から必要とされる病院”を目指しましょうというのが、当時の私の理念でした。

もう1つは、狭隘化(きょうあいか)が進んでいる病院で、一番問題は、ハードも遅れているけれど、そこで働く人や、業務の改革も必要であると感じていました。だから人事制度から、経理のあり方から全部のことを一から変えていきました。病院にとっても、遅れているというならば、他の病院よりも一歩前に進まないといけないし、後追いしていたらいつまでたっても追い付かないだろうと思いました。

だから移転と同時に、やれることは全部やっておきたいということで、私が帰ったときには98ノートのパソコン2台の病院だったんですけど、移転した後は、全国でも3番目ぐらいのスピードで電子カルテを導入しました。PACS(医療用画像管理システム)なども取り入れて、レントゲン写真などもネットワークを通じて管理できるような。

だから「パソコン2台の病院から、いきなりやるのは無謀だ」とか言われたんですけれど、そんなの移転してから1つずつやったら、いつまでたっても追い付かないじゃないですか。「今やらなかったら、いつやるの?」と(笑)

5ヨットレースで学んだ、嵐を乗り切る達成感。

丸尾

今でしょ(笑)。まさにそうですね。

浮田

一つ一つ変えていくことは疲れますし、無駄も出てきます。だから基本的には医薬分業も、そのときに同時に全部やってしまえばよいと。こういう姿勢は「無謀だ」とも言われたけれど、基本的に「大きな間違いがなかったならば、慣れで解決する問題が8割から9割なんだ」と。そして「それを問題だということ自身の方が問題」なんだと。

施設も新しくなる、だったら迷いもする。電子カルテになったらみんな戸惑いも出てくる。医薬分業も、したこともないのに初めて分業でやる。医薬分業で戸惑うのは患者様、システムで戸惑うのは職員。全体で大混乱。でもそれは、ある程度は慣れで解決すると考えました。

丸尾

今では当たり前のことですもんね。

浮田

僕はヨット乗りで、外洋レースをやっていたので、小さな嵐がちょこちょこ来るよりは、どんと大きな嵐を1つ乗り切った方が達成感も高いんだと知っています。だから全部一緒にやるんだといってやったわけですよ。1つ1つやっていたら、職員がまたか、またかになる。大改革で達成感を得て、遅れている病院だと言われたのが、一歩進んだ病院に職員も思えてくんだと思います。だから移転のときには、ユニフォームも全部刷新しました。

丸尾

今ではこの津山中央病院は、陽子線治療の導入などもあり、日本でも有数の病院になりましたよね。

浮田

そういう面でいろんなことをやってきたので、当初はシステムも最先端で、いろんな見学者なども訪れていました。そのように見られる機会が多くなると、職員も「うちってそういう病院なの?」と見直すようになりました。

6地域がなくなると、私たちの存在意義もなくなる。

丸尾

先日も津山中央病院のフロアで、先端医療機器ダ・ヴィンチ(医療ロボット)の操作体験会をやられていましたね。

浮田

ここ4、5年は特に人口減少や地域活性がいろんなことで叫ばれています。私も津山商工会議所副会頭としてこの4、5年、いろんな面で地域に関わってきて、地域活性化や人口減少問題について大きな地域の課題として捉えてきました。

医療機関としてもですが、地域がなくなっちゃうと、私たちの存在意義もないんですね。だから、私たちは地域に支えられている病院だということになります。実際に過疎地では診療所がなくなったり、病院は縮小したりしています。もし病院が縮小していったり、半分の規模になってしまったら、医療の質はそのまま維持できるかというと、絶対できなくなります。

ましてや、救急救命センター含め、一次、二次、三次の救急を全部受け持っていますから、その救急もできなくなる。医療の質も、体制も、この規模を維持していかないと地域を支えることができない。逆に言えば、地域に頑張ってもらわないと、この規模の医療が維持できない。ではどうするのか?となります。
ブランド力や伝統がある大学病院や、国立病院や、岡山県南部の病院がよいと思われる。以前から、岡山県南部などの地域外の病院へ行く患者様はたくさんいらっしゃいました。だから、もっと地域で完結できる、地域の皆さん方に信頼される病院を目指さないと、その流れは止まらないと考えています。この先人口減少が進んでいくのであれば、他の地域に出ていく患者様が、できるだけこの地域で安心して診てもらえるような病院体制を目指していかなきゃならないと。

地域が活性化することについて、医療福祉の面からもお手伝いができないかということで取り組んでいます。その1つが陽子線治療なんですよね。
陽子線治療を取り扱う病院は、この中四国地方にはほかになく、それをつくったことによって、地域外からも患者様が少しでも来てくれれば。それに伴い、津山圏域から外に出ていく患者様が少しでもうちに来てくれるようになれば、信頼のおける病院づくりにつながるのではと考えています。

特に人口減少という中で、海外からも来ていただけるだけではなく、津山圏域以外から来てもらえること自体がインバウンドなんですよね。人口流出を止めるといったら語弊がありますけど、信頼のおける病院づくりを目指していくことは地域活性にもつながっていると思っています。そして、働く医師の方も、最先端の装置・設備がないと、なかなか来たがらない時代になっているんです。

7医療によるインバウンドの可能性。

丸尾

医師の方もキャリアを積むために、どの病院で働くか選択をされているわけですからね。

浮田

医師の方が働きたい病院をつくることで、医師確保の面にもつながるんですよ。最先端な装置を取り入れることによって、良い医師の確保ができれば、より地域の皆さま方からの信頼にもつながり、地域のかかりつけの開業医の方々からも信頼が上がれば、わざわざ大学病院や、遠くまで行かなくても、「津山中央病院に行けば大丈夫だ」と感じてくれるようになる。地域外に出ることを止めること自体が、中長期的なインバウンドにつながるんですよ。

だから津山中央病院の院長は、“岡山県で誇れる病院”ではなくて、“日本に誇れる病院”を目指して取り組んでいます。ちょっとオーバーと思われるかもしれませんが、それぐらいの気概は、患者様からの信頼も、医師確保の面からも必要だと思います。

海外からの患者様も陽子線治療で、今年(2018年現在)は約15人程来ていただいています。海外からの健診も現在約40人ぐらいですが、少しずつ増やしていこうと考えています。これが経営的にどれだけ助けになるかは別にして、地域外から人が来るということが、地域にとって宿泊や、飲食など地域経済的にも多少プラスになってるのではないかと思っています。

浮田

その考えの発端は、「スーパードック」です。スーパードックは、通常の人間ドックに加え、精密検査や個別検査など多くの検査を1日半という短期間で実施できるプログラムです。「スーパードック」が生まれたのはもともと、私の昔からの友人であり、福岡にいたころのヨット仲間との会話からでした。

福岡にいた当時、私が35歳くらいで、その友人は25歳くらいでした。その友人は私と同じく、“ミスター有休マン”と言われながら、ハワイ、沖縄、東京、韓国、五島列島にレースに行っていたんですよ。レースは沖縄から東京に行ったりするので、長期的に休まないといけなくて(笑)。その当時はまだ高度成長時代で、会社も大らかだったので、メリハリがあってよろしい、なんて言われたぐらいだったわけです(笑)。ゴールデンウイークを全部休んで、沖縄、東京のレースに参加して、その年の8月にまた10日間ほど休んで、ハワイのレースに参加したりしていたんですよ。そのころは「モーレツ社員」と言われている時代でもあるけれど、逆にそういう休みを取る部分に関しては大らかな時代でもあったと。話がそれましたが・・・(笑)。

浮田

その友人は5年ほど前から一部上場会社の社長をしているのですが、彼が社長になったとき、私のところに電話があって、「健診をしてくれる病院で、どこかいいところはないか?」と言われました。全て検査をしたいというので、1日半程度でできる限りの健診を全部、院長に頼んでPET/CT、エコー、心電図、それから脳ドック、胃の内視鏡、大腸の内視鏡、それに一般の検査も全部できるようにプランを組むから、津山中央病院においでと。そして、以前私が紹介して、その会社と懇意になっているお客さんが津山市にいたので、「お客さんもいるのだから、出張で来ればいいじゃないか」と言って来てもらいました。

丸尾

そうやって、「スーパードック」ができたんですね。

浮田

そうですね。だからいろんな人とのつながりで、今のスーパードックができています。そのメニューは、いろいろバリエーションを増やしたり、改善もしています。岡山県南部から来る人もいるし、福山の方から来る人もいるし。今後は海外から来られる方にも拡げていこうと思い、それがまたインバウンド観光などにもつながればと取り組んでいます。

8働き方やチーム作りへの取り組み。

丸尾

ここの窓から見ると、津山中央病院の敷地内に保育園を新たに建設されているようですね。

浮田

保育園については、働き方改革とか、人材の確保という面から、もともと施設の院内保育を持っています。しかし、やっぱり女性の医師の方も多く、きちんとした認可保育園で、他の保育園と同じ料金でできるようにします。

今、津山市では一家庭につき、保育園に入る2人目は半額、3人目は無料となっていると思うのですが。だから今回、ちょうどよい機会だから、認可保育園で市の認可を取って、市内にある保育園と同じ形の保育園をつくっています。将来的には夜間保育もできるように考えたいんですよ。病院は夜勤の人がいますからね。

昔はおじいちゃん、おばあちゃん、両親とも同居をしていて、家には家族のだれかがいるから、子どもを預けて勤務ができたんですが、今は核家族だし、若いおじいちゃん、おばあちゃんならまだまだ両方とも働いている場合もありますし。私の孫は小学生ぐらいだけど、保育園児の孫がいるおじいちゃん、おばあちゃんもまだ50代〜60代ぐらいの方もいるわけで。共働きの人が多いとなると、小さい子を日中預かれないわけですよね。だから、昼間だけの保育では本当は難しい家庭のためにも、将来は夜間保育もできるように整備していこうかと考えています。

保育園や幼稚園は自由だけど、小学校は自分の住んでいる地域ごとの学区制になりますよね。そうすると小学校に上がるときに、自分が住んでいる学区内にある保育園とか幼稚園に行かせたいという声があります。そのまま友達と一緒に小学校に上がれるので。そこで、3歳までの保育園を整備しました。

丸尾

チームづくりなどはどのようにしているのですか?

浮田

医療の場合は、専門職でしょう?医師、看護師、薬剤師、検査技師、放射線技師、栄養士、リハビリ、理学療法士というふうに。そうすると、一般の会社みたいに人事異動でほかの部署に異動することもないんですよね。職種転換するわけでないから。

今、医師を中心とした「チーム医療」をやっています。医師が医療の中心にいることは間違いないですが、円の中心であって、円錐形のトップ(頂点)ではない。その中にヒエラルキーはありません。

医師を中心として、みんなで患者様を支えていくチーム医療をするために、他の部署とコミュニケーションを取る必要があります。でも実際は、なかなかコミュニケーションをとりにくいんですよね、仕事以外でも交わることがあまりないですし。だから仕事以外で交流ができるクラブ活動や、同期会などをもっと大切にするようにしています。

大企業などもそうだと思いますが、いきなり部署に配属して縦割りになっていまうと、コミュニケーションが取れないですよね。だからより顔を合わせてコミュニケーションを取る必要があるんじゃないかと思います。また、職員が毎年70〜80人ぐらい入ってくるので、その同期で研修旅行に行ったりと、横のつながりを作れるように、お互いを知り合うことができように研修も兼ねて行なっています。

9Camarade(キャマラード)、フランス語で「仲間」。

丸尾

最後に、皆さんにお聞きしていることがあるんですけど、浮田さんが日頃から大切にされている言葉を教えていただけますか?

浮田

私が、なぜこの年までヨットが続けられているかといったら、以前の転勤先々でいろんな人と出会って、そこでたまたまそのつながりがあるからです。それが仕事のつながりにもなったりもします。

だから、「一期一会」というか、「袖振り合うも多生の縁」じゃないけれど、本当にいろんな人にめぐり会ってきてよかったなと思っています。それが私の人生そのものだろうと思います。人との出会いは偶然だという人もいますが、偶然ではないのだろうと思います。

そうやって出会いながら歩んでくるそのものが、その人の人生だろうと私は思うんですよ。だから、その出会い、縁を大切にしながら、今は私たちの本業である医療を通じて、地域に貢献できればと思います。だから私の船の名前も、フランス語で「キャマラードcamarade(仲間)」です。よい仲間に集まってほしいし、よい仲間とめぐり合えて繋がってきたので、そういう名前を付けているんです。

だから、仲間づくりができる人間になりたいと思っています。
仲間づくりができて、いざというときに頼みごともできるし、頼まれたこともお手伝いできます。やっぱり人が組織をつくり、それが社会をつくっていくので、それが地域づくりにもなるのではないかとも。そして、それは医療に限らず、全ての仕事に通じるんじゃないかとも思います。

会社それぞれに面白みとか魅力はあるけれど、同じ業種だったらあの会社がよいという場合は、多分、組織風土のことを言っているんだろうと思います。その組織に魅力があるんだろうと思うんですよ。特に私たちは、人を相手にしている仕事ですし、ただ病気を治せばいいというだけでなく、人とのつながりを大切にしながら地域を元気にしていきたいと思っています。

出会いと人を大切に、医療を通じて地域を変える。

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一般財団法人 津山慈風会

津山中央病院、津山中央記念病院、津山中央クリニック、津山中央健康管理センター、津山中央居宅介護支援事業所、津山中央看護ステーション、津山中央看護専門学校、有料老人ホームアーバンライフ二階町、小規模多機能施設ナイスデイ二階町、フィットネス&スパカルヴァータ、岡山大学・津山中央病院共同運用がん陽子線治療センターなどを運営。

急性期(緊急・重症)から在宅ケア患者様への対応まで、専門のスタッフが高度な医療技術で支えます。津山慈風会では2020年を目標にビジョンをかかげ「日本に誇れる医療サービス空間の構築」を目指しています。

お話を聞かせていただきありがとうございました!本日お話して「医療」と絡めた、「経営」と「地域活性化」についてお話を聞けたのが、全体を通してすごく印象的でした。
そして浮田さんのおっしゃられた、医療に携わる上での“弱み”は『医師ではない』こと。でも地域活性化や経営に携わる上においての“強み”は『医師ではない』こと。
人とのつながりを大切に、医療を通じて地域貢献を行う姿勢に、とても感銘を受けました。浮田さんは津山にUターンし、「医療を通じて地域をかえる」かえーる人でした。

  • 取材日:2019年2月22日
  • 撮影地:一般財団法人津山慈風会(津山市川崎)
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