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卵の流通に安心と安全を

共和機械株式会社 代表取締役社長

友末 琢磨

津山市

共和機械株式会社の代表取締役社長 友末琢磨さんにお話を聞きました。

 

#ニッチトップ企業

#安心安全な卵を届ける

#ニーズに応える製品開発

#事業承継

#選択と集中

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ニッチなトップ企業、卵専門の機械メーカー

丸尾

業界トップクラスの企業でもありますが、あらためて共和機械はどういった会社でしょうか?

友末

一言でいうと「卵専門の機械メーカー」です。養鶏場などにおいて、卵を集めてから梱包するまでを担う一連の機械を製造しています。

丸尾

製造されている機械は、主にどのような機械がありますか?

友末

「集卵機」や「洗卵機」、「乾燥機」、「検査装置」など多岐にわたります。

 

そして例えば検査装置では、卵にひびや汚れがないかだけでなく、光学検査で卵の中身までチェックができます。他にも卵をサイズごとに選別して梱包する機械などもあります。

 

また「高速割卵機」も主力製品です。

ちなみに一番売れている機種だと1時間に4万個の卵を割ることができますよ。

丸尾

1時間に4万個!?すごい速さですね・・(驚)

機械の提供先は主に養鶏場でしょうか?

友末

機械は養鶏場だけではなく、GPセンター(グレーディング アンド パッキングセンター)と呼ばれる卵の選別施設や、卵の加工メーカーなどにも納入しています。

丸尾

国内外のシェアはどのくらいでしょうか?

友末

世界中で共和機械と同じような装置メーカーが10社あるかないかで、そのトップ5には入っているかと。国内シェアは販売規模でいうと現在2番手ですね。特に高速割卵機の分野では国内ナンバーワンです。非常にニッチな業界ですけどね。

「安全安心に卵を届けたい」お客様の悩みに向き合う

丸尾

業界のトップ企業として、共和機械の開発力はどこから来るのでしょう?

友末

機械の開発については、お客様から「こういうこともできたらいいのに」という声をいただくことがあるため、お客さまの声が開発のヒントになることが多いです。

 

卵は鮮度が高い状態でないと売り物になりませんが、もし機械が壊れても鶏が卵を産むのを止めることはできません。だから、間に入る機械は大変な責任を負っていると感じます。

 

私たちは、「より安全安心に卵を届けたい」というお客様の悩みに対して、ご提案する立場から、それに応えるための研究や技術開発を常に続けています。そういう意味では、卵を流通させている方々のニーズについては、誰よりも理解している自信があります。

 

そして独自アイデアは積極的に権利化もしています。昨年だけでも10件以上の特許出願をしました。

中学生の発明から生まれた企業

丸尾

創業の成り立ちを教えていただけますか?

友末

共和機械は1960年に私の祖父が創業しましたが、その1年前に日本で初めて自動洗卵機の商業生産を開始しました。この自動洗卵機が登場するきっかけとなったのが、当時中学生だった私の父の発明です。

 

祖父は技術研究者でした。戦後に津山に戻った後は、私財を投げ打ってでも「世の中に役立つものを作る」と研究に打ち込んでいたそうです。

 

厳しい家計を支えるため、自宅では鶏を飼って卵を売っていました。ただ、まだ中学生だった祖父の長男、つまり私の父親ですが、にとっては、毎日たくさんの卵を洗うという労働が苦痛だったそうです。

 

そこで父が作ったのが、ハンドルを回すと卵が簡単にきれいになる装置でした。これが「全日本学生児童発明くふう展」で内閣総理大臣賞を受賞。その新聞記事を見た全国の養鶏農家から問い合わせがあり、祖父がその装置をもとに自動洗卵機を設計したんです。

丸尾

まさに新しいものが生まれる瞬間ですね!そこから生まれ、お客様のニーズを取り入れつつ、ここまで会社が育ってきたんですね。

友末

祖父は人のためになるものを開発したいという志の持ち主だったので、お客様の要望に応じて自動洗卵機のいろいろな派生機種の開発を行なっていたそうです。

 

1960年代後半には卵をサイズごとに分けて流通させる流れが生まれましたが、当時は海外製の高額な自動選別機しかありませんでした。そこで選別機能付きの洗卵機を発売したところ、大ヒットしました。その洗卵選別機を軸として、時代に合わせてさまざまな機械を開発してきました。

帰省した際に、突然訪れた転機

丸尾

社長ご自身のこれまでの歩みをお聞きできますか?

友末

私は津山市の生まれですが、縁があってカナダの高校に通うことになり、17歳の頃に地元を離れました。高校卒業後はそのまま現地のカレッジに入学しました。

 

その後、学生ビザの要件が厳しくなったこともあり、向こうでの就職は諦めて24~25歳の頃に帰国。当時は就職難で、地元では仕事が見つからなかったため、運よく紹介された東京の電子部品メーカーに就職することになりました。

 

そのメーカーの山梨工場に2年勤めた後、海外事業部立ち上げのために東京本社に転勤となりました。その頃は責任ある仕事も任せてもらえていたし、やりがいも感じていました。

丸尾

そこから、こちら共和機械に戻られることになったきっかけは、どうでしたか?

友末

転機は、子どもが生まれる報告のために実家に帰省した時でした。

 

父が「わしの仕事を見せちゃる」と共和機械の工場を見せてくれたんです。当時の共和機械製品は、自分が子どもの頃見ていた機械よりもはるかに高度な機械になっていました。電子部品メーカーに勤める立場からすると、とても興味深かったのを覚えています。

 

そうしているうちに事務所の応接室に連れていかれました。「機械はおもしろかったか?」とか「決算書も見てみるか?」とか、しばらく会話がつづいた後「・・・うちに帰ってこんか?」と。回りくどいですよね(笑)。工場を見て興味が湧いたこともあり、家業に戻ることを決めました。

「共和機械に任せて良かった」と言われる仕事を

丸尾

そこから現在に至るまで、どのような取り組みをされてきたのですか?

友末

規模を拡大してきたこともあり、当時はお客様の要望に応えれていない部分もありました。そこから営業活動を続けていき、卵の流通に携わる方々のこだわりや使命感、共和機械が果たすべき責務を、ダイレクトに感じました。

 

34歳の時に代表取締役に就任したのを機に、社内の体制を大きく見直しました。当時、何でもするスタイルが災いして、お客様のニーズにそぐわない製品や開発プロジェクトも多くありました。そこでいったんそれらを取捨選択し、商品の絞り込みや開発の方向性の集約化を進めました。

 

そこを基本としお客様の悩みに対して共和機械ができることを形にしていこうと再スタートしました。かれこれ16年改善を続けながら、お客様の課題に寄り添う新たな製品についても開発を続けています。

丸尾

これから目指すビジョンを伺えますか?

友末

共和機械が培ったノウハウや技術、それらを形にした機械や装置は、日本の卵が安全安心に流通するために欠かせないものだと自負しています。今後も、卵の生産や流通に携わる方々のニーズを最大限に形にする集団であり続けたいというのが、一番の目標ですね。

丸尾

最後に、大切にされている言葉を教えていただけますか?

友末

私たちはお客様がいて、共和機械であることを許されていると思っています。だから社員に対しては、「共和機械に任せて良かった」と言ってもらえる仕事をしようと常々言っています。こうしたお声をいただけている限り、私たちはどこまで挑戦し続けていきます。

卵の流通に安心と安全を

共和機械株式会社

1960年創業の鶏卵に特化した機械メーカー。日本初の自動洗卵機を皮切りに、卵の選別包装システムや高速割卵機など多様な機械・装置を販売。「優れた技術と優れた製品で社会に貢献する」の理念のもと、時代とともに変わる鶏卵産業のニーズに対応した技術開発にまい進している。

お話を聞かせていただきありがとうございました!卵に特化し、日本だけでなく世界でも有数のメーカーである共和機械。その生まれた経緯から、これまでの歩みも詳しく聞かせていただきました。はじめの自動洗卵機がこの世に生まれ、共和機械がスタートしたエピソードも大変興味深くエピソードにのめり込みました。

 

また、工場内も案内いただき、創業の頃からのモノづくりスピリットが、今も共和機械に脈々と流れていると感じました。お話の節々で卵に対する熱意は凄まじいものがありました。友末社長は、カナダ、東京からUターンの卵業界をかえていくかえーる人でした。

 

  • 取材日:2024年2月1日
  • 撮影地:共和機械株式会社(岡山県津山市)
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